鉄道がなければ地域の発展はない−。そんな思いから町ぐるみで鉄道会社を興し、懸命に運営していた「出石鉄道」の歴史を掘り起こした企画展「最初で最後の出石鉄道展」が、但馬国府・国分寺館(豊岡市日高町祢布)で始まった。5月6日まで。最後の列車が走ってから70年。当時を知る人が少なくなっていることから、「最初で最後の」と銘打った
■悲運に泣いた歴史を但馬国府・国分寺館で■
出石鉄道が走っていたのは昭和4年(1929)から19年までのわずかな期間。運行区間も、現在のJR山陰線江原駅と豊岡市出石町を結ぶ11・2キロの小さな会社だった。
もともと鉄道への思いが強い地域で、明治29年(1896)から誘致運動を続けていたが、山陰線は43年、京都から福知山、和田山を経て鳥取へと開通。鉄路から外れた出石からは官公庁や銀行が豊岡へと移転して行き、それまでの繁栄にかげりが見え始めた。「このままでは」と、出石を通る鉄道会社設立の機運が高まり、大正8年(1919)に設立したのが、出石鉄道だった。
しかし思うように設立資金は集まらず、住民たちに出資を呼びかけることに。こうして「町内ほぼ全戸」に相当する2千人が株主となって会社がスタートした。
2年後から鉄道建設工事を開始。完成までには8年を要した。距離が長かったわけでも、難工事があったわけでも無い。長くかかった要因は、やはり資金難だった。
開業後も資金難は重くのしかかる。やっとの思いで購入した蒸気機関車は中古で力が弱く、自転車ほどの速度しか出なかった。しかも度々故障して運休。これでは乗客が増えるはずもなかった。
新車で購入した車両もあるにはあった。ガソリンエンジンで動く客車、ガソリンカー。これも不運なことに、力が弱くて坂を上ることが出来ず、乗客が降りて押したという逸話も残る。中古SLと同じく、故障がち。修理のため2年も運休し、やっと動けるようになったと思った矢先、昭和17年に車庫火災が発生して焼失してしまった。
当時も、住民たちは豊岡へ出かけることが多く、江原へ出向くことは少なかった。それでも出石−豊岡ではなく、出石−江原に鉄道を敷設したのは、出石から野田川、江原から鳥取へと鉄道を延長しようという壮大な計画を人びとが立てていたからだった。資金難に加え、加悦や神鍋の山をくり抜く長いトンネルを掘る技術は当時無く、現代の感覚からすれば、およそ実現不可能な計画ではあった。
災害にも泣かされ、室戸台風など2度の水害で橋りょうが流され、そのたび、復旧するまでの期間、汽車は橋までで折り返し、川は渡し船でという運行を余儀なくされた。
こうした不運が続き、1日7往復で、1本あたりの乗客は10人から20人ほどという苦しい運営に。戦況悪化による物資不足のため、昭和18年12月、軍から運行休止命令が出た。住民たちは決起集会を開くなど猛反発したが、翌年5月、強制撤去命令が出て鉄道設備の撤去が始まり、鉄道運休の日を迎えた。
戦後は復旧請願陳情をするなど、鉄道再開へと運動を続けたものの、鉄道の灯が再びともることは、ついになかった。
今回の企画展には市が所蔵する資料に加え、住民から写真や図表など多くの資料提供があった。中には橋りょう台帳もあり、円山川にかかっていた鶴岡橋りょうが、撤去後に橋けたを南海鉄道と山陽電鉄に転用したことが新たに分かった。これまで、レールをはじめ全ての資材が軍へ供用されたと考えられていたことから、「民生転用が分かったのは画期的。追跡調査をすれば、もしかして一部なりとも現存しているかも知れない」と、学芸員の前岡孝彰さんは話す。
4月25日には講演会「出石鉄道の歴史」もある。地元の郷土史家、中村英夫さんが講演する。
但馬国府・国分寺館は豊岡の歴史を紹介する資料館で、水曜休館。一般500円、高校生200円、小中学生150円。電話0796(42)6111。
写真=初公開の線路平面図に当時走っていたSLの模型を置いた展示
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