6434人の命が奪われた阪神・淡路大震災から、17日でちょうど20年を迎える。福知山消防署東分署予防係の消防士・西村洋祐さん(27)は、20年前の震災で大きな被害を受けた神戸市東灘区の出身。被災経験者として、消防士として、福知山の人たちに自助、共助の重要性を伝えている。
■福知山消防署の西村さん■
震災発生時は小学1年生、7歳だった。親戚の通夜があった1月16日の夜、自宅マンションの寝室で、姉と親戚の子の計4人で寝た。翌17日午前5時45分、母がセットしていた目覚まし時計で起きた。その1分後だった。地響きのように「ドーン」と音がして激しく揺れた。
頭と足の近くにあったタンスが倒れたが、幸いだれも下敷きにならずにすんだ。すぐあと、西村さんは父に抱えられて外にいた。その時に見た光景…。
「空が真っ赤だった」。近くで火災が発生し、煙がもうもうと上り、多くの建物は倒壊していた。街の変わりようは、頭で理解できるものではなかった。「ゴジラが来たんちゃうかな」。本気でそう思った。
震災後は、近くの大学へ避難。電気も、ガスも、水道も止まり、余震が続き、暗いなかで寒さと恐怖に震えるだけだった。2日後、三重県の親戚宅に姉と2人で預けられた。1カ月後、再び神戸へ戻ったが、同じ学年は3クラスが2クラスに減っていた。転校したまま戻って来ない子が多かったためで、それ以来会っていない友だちもいる。
■「人の役に立つ」憧れの職業に■
震災直後の神戸では、家屋の倒壊現場から家の人を助け出そうと、隣近所の住民が協力してガレキを取り除く姿をあちこちで見かけた。活発な少年だったが、何も手伝えなかったことが無念だった。
街ではサイレンを鳴らして消防車や救急車が走り回っているのをよく見た。震災後に、防災訓練で学校に来る消防士の姿に憧れた。
あの時「何もできなかった」という無力感、そして「人の役に立つ仕事がしたい」との思いが、いつしか消防士という職業へ自らを導いた。地元からは離れていたが、福知山市の採用試験を受けた。
被災後、学校では防災教育が盛んになり、日頃からの備えの重要性を学んだ。また、住民が助け合う現場を幾度となく見てきて、「人は一人では生きられない。人と人は支え合って生きている」という精神が染み付いた。
福知山の消防職員となって5年目。今の自宅には水、食料を備蓄し、家具には倒れるのを防ぐ固定金具を取り付けている。「自然災害は止められないが、被害を最小限に抑えることはできる」。命を守るため、日ごろの備えや地域住民同士のつながりの重要性を、市民対象の講座で懸命に訴えている。
写真=家族は無事だったが、毎年1月17日午前5時46分には黙とうしている
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